人生は暇すぎる。
去年の冬、このことに気付いた。
よくよく考えてみると、人生において、本当にやるべき事ってそんなにない。
やりがいがあり、達成感があり、興味の尽きない分野であり、人のためにもなり、収入にもつながる、そして自分がいなくなった後にもその価値が残るもの。
そんなものがあれば、人生を掛けるに値する。
それらを満たすものの第一位は、「仕事」である。
「仕事」は最も面白く、やる意味と価値のある活動だ。
ただ、通常一日の時間のすべてを費やして仕事をすることはない。疲れてしまい、リフレッシュが必要になる。そのため、一日の時間のすべてを費やして仕事をすることは労働者として働いている限り、求められない。
それは、もしかすると労働は「本来やりたくないもの」という前提があるからかもしれない。
それも一理あるにはある。しかしそれなら、働かなくてもお金が入ってくるようになり、日がな一日何をしても自由という状態になったとしよう。
何も生産しない、ただ消費するだけの生活。
そんな人生が楽しいだろうか?
自分は、人生の楽しさの本質とは「生産すること」にあると考えている。
確かに消費行動は楽しいものだが、「生産」のための自分自身のコンディションの調整、地盤作りという側面もある。
旅行も、行って見聞を広めたり友人・恋人と楽しむためではあるが、それが何かを生み出す原動力になったりもする。
もちろん異なる意見を持つ人もいるだろうが、自分は、何のために働くのか、何のために生きるのかを突き詰めた結果、こういう答えに行き当たったというだけだ。全ては価値を生産することに繋がっている、と。
社会に出て、仕事を振られて、はじめは何のためにやっているかなんて考えずにがむしゃらに働いていた。しかし、仕事を広く深く経験するうちに、これがどこの誰のためになっていて、どんな価値を生んでいるのかという事を理解しようとするように、自分の脳みその思考回路が組み換えられていった。
はじめは、仕事なんてそんなに面白いものではなかったけれど、「仕事は面白くないもの」「給料のためにイヤイヤでもいいからやらなければいけないもの」という考えには同調したくなかった。
数は少なくても「仕事が面白くて仕方がない」そんな人間がいる事を知っていたから、どうしたら自分もそうなれるかという試行錯誤で思い悩んだ。常々、そんな事を考えていた。
社会人になって4年間ぐらい、紆余曲折あって、そのあげく、色々試して失敗してという事を繰り返して、結果として成功するための方法なんてものは見つからなかった。それ自体が失敗だったのではないかという過去4年間への想いが自分に残った。
そして、その次に仕事をすることになったのが、前回話に上げた「村上さん」のいる職場だった。
村上さんは「楽しくないと仕事じゃない」なんて事を言ってのける人だった。
そんなことが本当にあったらいいなと思いつつ、村上さんの下で働きながら、その行動を観察した。
村上さんはかなり難しい仕事をしていた。生半可ではなくキツい、クレームを腕一本で解決するような仕事をしていた。そして、関係者の利害が錯綜した現状を、必要な関係者に適切に働きかけ、そのもつれにもつれた問題を、プロセスが泥臭くても結果としてなんとか解決してしまうのだ。
村上さんは問題が難しければ難しいほど、イキイキとしていた。進捗が思わしくなく、渋面になることもあったけれど、常に楽しんで仕事をしている事は目に見えて分かった。自分に課せられた仕事を無事解決することを、心底楽しんでいたのだと思う。
仕事とは、結局偽りのない、自分の持つ人間性でしかできないと思った。彼は本音で仕事をしていたのだ。それは、嘘をつかないということではない。時に必要な嘘というものがある。しかし、本当の事を隠すことが全ての関係者にとってHappyなのであれば、本気で嘘をつく。それが、本音で仕事をするということでもある。
そんな風だったから、だれもが村上さんに一目おいていた。
そうして村上さんの下で働くうちに、失敗だと思っていた自分のこれまでの4年間が、決して意味のない4年間ではなかった事にだんだんと気付いていった。
ただし、結局意味があったと思えたのは、自分が仕事で苦しんできた経過に対してだった。楽に切り抜けられた経験は殆ど活用できなかったように思う。もっとこうすれば良かったとか、自分の力のなさに打ちのめされ、努力不足に深い後悔を感じ、後味の悪さを感じながらそのギリギリの中でもなんとかやってきた経験が、実は本当に活用できる経験であったことにこの時期、気がつけた。
そして、より難しい仕事に面白さを感じるようになったのもこの時期だった。たいてい、難しい仕事というのは「自分の頭で考えなければならない仕事」である。利害関係者一人一人について「この人はどう考えるだろう」とコツコツ理論的に考えることである。一般的に、考えることは面倒なものである。できれば、考えたくないと誰もが思っている。
しかし、それは食わず嫌いだ。自分の頭で考えるということを習慣付ければ、これほど楽しいことはない。知的遊戯のようなもので、考えれば考えるほど、いいアイデアというのは浮かぶものだし、テーマさえ与えれば脳は飽きる事を知らないかのようにアウトプットを出してくる。
そうする中で、仕事外のプライベートの時間の使い方が、だんだん変わってきた。
もともとギャンブルは全くしないが(他人が勝つためのルールに乗っかって勝てるわけがない)、飲み会は好きだしスポーツも旅行も大好きである。
しかし、飲み会も旅行も毎日行くわけではない。旅行はたまに行くからいいのだし、飲み会だって同じ面子とずっと一緒に飲んでいても何の発展もないから、同じグループとは月1回ぐらいに落ち着く。会社の人とはもうちょっと頻度が高くなるが、それでも2週間に1回ぐらいがいいところである。
スポーツは、できればサークルなどに入りたかったが特に上手いスポーツがあるわけではないので、なかなか入りづらい。今のところ、ジムに行くのと友達とたまにゴルフの打ちっぱなしに行く程度に落ち着いている。
以前は音楽をやっていて作曲活動や練習に明け暮れていたので時間がいくらあっても足りない気がしていたが、結構周りのモチベーションとか動きに翻弄される職業だと気付いて、打ち込めなくなってやめてしまった。
テレビもあまり意味がないことに気付いて、録画したものしか見なくなった。
さて、そうなると、暇なのである。
仕事から帰っても、何もすることがない。録画したテレビも、1日40分ほどで見終わってしまう。彼女がいても、週1回ぐらいしか会えない。
さて何をしよう?
そんな時、思いついたのがオラクルマスターだったり簿記という資格取得だった。つまり、余ったヒマな時間を、自分の成長に使おうと思ったのだ。
確かに、テレビを見ていれば楽しかった。しかし、ぼーっと見ていても何も残らないことも明白だった。
資格取得の勉強をしている間は、思いのほか充実した。勉強すればするほど、楽しくなった。
人をつなぎとめる会社の秘訣とは、「やりがい」と「成長している実感」であるというが、まさに成長の実感を得るために、将来役に立つ「暇つぶし」を自分は始めたのである。
ただしこの気付きは、逆の意味で劇薬だったのかもしれない。というのも、試験が終わって勉強しなくてもいい時期が来ると、夜が暇で暇で仕方がなくなり、何か意味のある事、「やりがい」か「自分が成長すること」を求めてしまうようになったのだ。
「人生は暇すぎる」
その言葉を噛み締めて、時間を無駄に過ごしてしまう事で意味のない空白の人生を排除し、意味がありより多くの価値を生産する濃密な人生を、選択していきたいと思う。
それがただの「暇つぶし」ではなかったと、証明するためにも。
これを最後まで読んで頂いたあなたは今、
どんな意味のある「暇つぶし」を選択していますか?